これもまた過ぎ去る

クリスタルトライブの皆様、こんにちは。

コロナウイルスの影響で先の見えない不安な日々が続きますね。

そんな中、私の脳裏に毎日のように響く言葉があります。

「これもまた過ぎ去る」

これは、昔々のアラビアの寓話です。

インドの神秘家OSHOの本にそのお話があって、昔読んだ時にいたく感銘を受けた物語です。

寓話というものは、
子供でも楽しめるストーリーでありながらも深遠な真理が柱となっており、よく味わえば大いなる理解が生まれます。

イエスキリストやお釈迦様も難しくなりがちな教えを数々の寓話で伝えています。

今回シェアしたいこのお話しはスーフィーの物語で、スーフィーとはイスラム教の中でも最も神秘学的な教えを継ぐ人たちのことです。羊の衣を着た修行者という意味です。

では、「これもまた過ぎ去る」の始まり始まり〜

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多くの賢者たちを擁していた王が自分の富に不満を感じた。しかも近くの国、彼の国よりも力の強い国が攻撃の準備をしていた。王は死を、敗北、絶望、寄る年波を恐れていた。

そこで、彼は自分の賢者たちを呼んで言った。「なぜだかはわからないが、私はある指輪を捜さなければならない……それは、不幸なときには私を楽しませてくれると同時に、もし幸せなときに見たら、悲しませてくれるという指輪だ」

 「彼は鍵を、ふたつの扉を開くことのできる鍵を求めていた――幸福の扉と不幸の扉。彼はなにを求めていたのだろう? 彼は自分のムードの習得を求めていた。自分のムードの主人になりたいと言っていた彼はもはやそれらの犠牲者になるのを望んでいない。」

 賢者たちは相談しあったが、どのような結論も見い出せなかった。ついに彼らはスーフィー神秘家のところに言って助言を求めた。スーフィーは自分の指から指輪を外し、それを彼らに与えて言った。

「ひとつ条件がある。それを王に与えるがいい。だが、彼に伝えることだ。すべてが失われ、混乱の極みに達して、苦悩の極みに達して、まったく望みがなくなったときにしかその石の裏側を見てはならない。さもなければ、彼はメッセージを逃す」

 王は従った。国は失われ、自分の命を救うただそれだけのために、彼は王国から逃げ出した。敵が迫っていた。彼は騎馬の音を聞くことができた……しかも馬は死んでしまい、彼は自分の足で走った……彼は窮地に陥った。底の知れない深淵しかなかった。

 最後の瞬間になって、彼は指輪を思い出した。彼はそれを開けた。石の裏側を見ると、そこにメッセージがあった。そこには――

 これもまた過ぎ去る、とあった。

Osho UNTIL YOU DIE, pp.192-204

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この物語はどんな悲惨なことも、また幸せの絶頂のようなことも大局の視点から見れば、「これもまた過ぎ去る」という真理を語っています。

この王様は、よほど賢い王様だったのでしょう。
だからこそ、幸せと不幸せ二つの扉の鍵を求めていたのです。

ムードの犠牲者にならないこと、それは幸せや不幸の中にあっても状況や自分の感情、気分に踊らされない自分自身の中心を持った存在になる事です。

落ち込んだり絶望感にある時、こんなことはもう終わらないのじゃないかともっと不幸な気分になったり、
また逆に幸せの絶頂である時、この幸せが永遠に続くと良いのにと思います。

でも、「生々流転」や「諸行無常」と言われるように、この世の全ては移り変わり続けます。

モナリはこのお話を知ってからもう随分長いこと「これもまた過ぎ去る」を実践しています。

辛い時、どうしようもない気分に包まれた時、考えに考え落ち込み果てた末に、はっ!と「これもまた過ぎ去る」に気づくのです。

すると、不思議に気持ちが楽になります。気持ちが落ち着くと物事が好転していきます。

今では、この気づきのエクササイズのお陰で何事か望まぬ状況になっても

「ああ、これもまた過ぎ去る」

と、ムードに巻き込まれないようになりました。

ちょっと勿体無い気もしますが、ハッピーで絶好調の時も「これもまた過ぎ去る」と気づくようにしています。

中道というのか、中庸というのか、自分の真ん中にくつろいでいられる様になります。

ちゃんと予防もしつつ「これもまた過ぎ去る」と気づいてくつろいでみてください。

こんな時こそ。

ドゥニクリスタルへ続く

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